文京区千石 地名の由来

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今回は、新プロジェクト文京千石コーポラティブハウス」が位置する「文京区千石」についてご紹介します。

まずは地名「千石」の由来から。

千石と聞くと、領土の石高をイメージしますが、こちらの由来は少し違うようです。
町の南部を流れる千川の「千」と、その地区名の小石川の「石」を合成した。
(出典:「東京23区の地名の由来」 金子勤 幻冬舎)

昭和42年に、宮下町・丸山町・西丸町・西原町・林町などが統合されて成立。地名は、地内を流れる千川の「千」と、小石川の「石」をとった。
(出典:「日本全国 合成地名の事典」 浅井建爾 東京堂出版)

※文京区ホームページより抜粋

▲千石緑地(一橋徳川家より寄付された自然豊かな樹林地)

 

さらに歴史を遡ると、旧町名は「小石川林町」となります。

徳川幕府が終焉を迎え、江戸が東京となったころ、文京区の前身として小石川区と本郷区の2つの区がありました。
この地名は、1869年(明治2年)に成立し、1966年(昭和41年)に廃止されたので、比較的最近まで「林町」だったことがわかります。

 

「林町」の由来は?

林町という名前の由来は、このあたり一面が雑木林だったということではなく、
江戸時代に林大学頭(はやしだいがくのかみ)の下屋敷があったことによるものです。

朱子学の大家である林羅山を祖とする林家は、3代目の林鳳岡が初めて大学頭を名乗り、代々江戸幕府直轄の教学機関「昌平坂学問所」を維持運営していたお家柄。

鳳岡より数えて9代後の林復斎は、1854年(安政元年)の黒船来航の際、時の老中阿部正弘の命を受けてペリーと交渉を行った優秀な外交官だったようです。

明治政府は、欧米に並ぶ近代国家を目指しており、教育に力を入れる方針を打ち立て、広大な土地を持つ多くの大名屋敷は大学などの教育機関に姿を変えました。

「東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)」や「東京高等師範学校(現・筑波大学)」、「東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)」、「東京医学校(現・東京大学)」などが設立され、さらには多くの出版社が大学周辺に集まってきました。
これが文京区が「文教地区」と呼ばれる所以です。

さて、その「文京区」ですが、1947年(昭和22年)に、当時の小石川区と本郷区が合併して誕生しました。

教育機関や出版社などが多く、「文の京」「文教の府」と呼ばれていた両区を表す名称に相応しく、
また「文京」の文字が書きやすかったことで区議会により採択されたようです。

文京区は、「歴史の中に知を」を武器に、激動時代を歩んだ人々を感じさせる場所でもあるのです。

文京区施設である文京区ふるさと歴史館なども訪ねてみると楽しいかもしれませんね。

 

▲文京ふるさと歴史館

では、江戸時代はどんな場所だったのでしょうか?次回はその点について触れたいと思います!

知の歴史をつなぐ地に、あなたの「想いをカタチに」する住まいを創りませんか?

文京千石コーポラティブハウスは、コチラ

 


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