土地のルーツは一橋徳川家の下屋敷!
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(歴史:後編)
前回に引き続き、地名から見る文京区の歴史をお伝えしていきます。
前編をまだご覧になってない方は是非、あわせてご覧ください!
⇒歴史前編「文京区千石 地名の由来」
さて、文京区アドレスの新築マンション広告では、
「歴史」・「継承」などの言葉が頻繁に使われていることはご存じでしょうか?
江戸時代初期、この地には大名屋敷や武家屋敷が置かれ、
伝通寺・護国寺・根津神社等の寺社が創建されて次第に町が形成されていきました。
「歴史」・「継承」は、江戸の開発・発展とともに広範囲に市街地化したという
歴史ある町ならではのキャッチコピーですね。
それでは、今回の「文京千石コーポラティブハウス」の計画地がある
文京区千石2丁目は、江戸時代は一体どんな街だったのでしょうか?
こちらは、古地図と現在の地図が重ねて見られる地図です。
今回の計画地はなんと、あの一橋徳川家の下屋敷だったのです。
激動の幕末から明治維新、大正時代へと駆け抜けた
第15代将軍徳川慶喜のお抱え屋敷だったようです。
さらに、もっともっと遠い昔に歴史を巻き戻してみましょう!
文京区のエリアに「人」が住み始めた歴史は古く、
約18,000年前の先土器(旧石器)時代と推定されており、
区内では約10,000年以前に始まる縄文時代の遺跡が数多く確認されています。
文京区の地名に「弥生」という住所(東京大学・弥生キャンパス周辺)がありますが、こちらはあの「弥生時代」の名前の由来になっているそう。
この地は、人が住む場所として非常に長い歴史があるといえます。
地形図で見ると文京区弥生は本郷台地に位置します。
長く人々が住んできたということは、
土地としての安全性が非常に高かったからではないかと考えられます。
『安全性』については、またの機会に触れていきますのでお楽しみに!
古の世から人が生活していた地、「白山台地」に位置する
文京千石コーポラティブハウスは、コチラ
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